もっとたくさんの人と環境学を…ランキングに一票お願いしますm(_ _)m

プロフィール

エコ猫

Author:エコ猫
環境学への学問的探求と言っても、あまり堅くなりすぎないように気を付けて、みんなで知的に楽しめるようなサイトを運営したいと思っております。


広告


最近のトラックバック


ブロとも申請フォーム


ひとこと

何か感じたことや考えたことがありましたら、お気軽にコメントに書き込みください。 また、相互リンク等も喜んで受けたいと思いますのでcatswalk(at)hotmail.co.jpまでご一報ください。(アダルト系サイトや出会い系サイトからの相互リンクはお受けできません)
免責事項
当サイトには他のサイトへのリンクが含まれています。万一、リンク先のサイトの利用につき問題が生じた場合、利用者の方ご自身の責任でご対処くださいますようお願いいたします。

六本木ヒルズを作った森稔

今日は六本木ヒルズの創始者である森稔(もりみのる)氏がテレビに出演していた。「路地裏文化」を守るべきだという一方の主張に対して、彼の主張はそのような古い文化は捨てて新しい楽しさを求めるべきだと語った。

この番組でおもしろいと思った点は、対立の図式が空間的に狭い場所で展開されていることである。開発をめぐる議論では都市と農村、あるいは先進国と途上国というような空間的に広い図式上で行われることが多かった。しかし、今回の議論で争点となっている場所は新橋や虎ノ門といった東京都心部の大通りと路地裏である。数十メートル以内という非常に狭い隣接関係にある大通りと路地裏で、先進国と途上国における問題と全く同じ構図の議論が繰り広げられていることは興味深い。

ところで今回の議論の内容はというと、路地裏という風景を残すべきかどうかというところで森稔氏は盛んに残す必要はないと言っていた。最新テクノロジーを前提とした街づくりをするべきであり、建物も強度の優れた新しいものへと建て直す必要があるというのが彼の言い分であった。

それに対し路地裏の文化を守るべきであるという主張のおおまかな主張は、「路地裏を文化として保存するべき」「新しい大通りから少し路地に入った時のほっとする風景としての路地裏が必要」といった点であった。

私見によれば、森稔氏の主張は時代錯誤も甚だしいというのが正直な感想である。彼の生まれた世代が欧米諸国に追いつけ追い越せという価値観でものを見てきたせいもあるのかもしれないが、そもそも最新のテクノロジーとなつかしの風景を天秤にかけて、どちらが進んでいてどちらが遅れているからと価値付けすることが間違いである。

環境倫理学の分野で伝統的生態学的知識(Traditional Ecological Knowledge以下TEK)と科学的生態学的知識(Scientific Ecological Knowledge以下SEK)という二つの概念が議論され、TEKにもSEKに勝るとも劣らない論拠がある可能性が明らかにされてきているが、もし日本の路地裏文化がTEKとして社会的に機能しているとすれば、それをテクノロジーでおさえこむよりも、テクノロジーで支えていくほうが断然好ましいと言える(注)。

注:森稔氏のさす「最新のテクノロジー」は、ハード面での科学技術のみを指している可能性があり、そうなると今回の論点とは若干のずれが出てくる点に注意していただきたい。

オススメの参考文献

環境倫理学入門―風景論からのアプローチ
最近出版された風景論を扱った環境倫理学の入門書。これまでの環境倫理学の主要な議論をわかりやすく網羅しており、今回の記事の「路地裏の風景」を環境倫理学としてとらえるとどうなるのかを見ることができる。

紛争の海―水産資源管理の人類学
日本語の文献では、この本のなかで秋道と大村がTEKについて比較的わかりやすい議論をしている。

↓エコレベルがアップしたらご協力お願いします↓
ランキング
ランキング2

地産池消ってなんだろう

牛肉の記事(※1)とお寿司屋さんの記事(※2)の中で「感情的リンク」というのと「顔の見える関係」という二つの食に関する概念が出てきたということで、実際に最近その二点を実際に改善に向かわせている運動としての「地産地消」に触れておかなければならないだろうと思います。

地産地消というのは、地元で作ったものを地元で消費するという意味です。先日紹介した(※3)文教大学エコキャンパスの作ったグルメマップというのもこの「地産地消」を促すためのものであると言えます。

地産地消にもいろいろな形態がありますが、一番わかりやすいものとして地元の農家による直売店があります。直売店に行けば、すぐ近くの畑で育てられた野菜が手に入り、場合によっては生産者に会えたり、世間話に花を咲かせることだってあります。こうして、実際にどのように育てられているものなのか、またどんな人が作ったものなのかがわかるようになるのです。(さらに詳しくは財団法人日本特産農産物協会ホームページの地産地消を参照)

他にも地産地消は、運送費と運送によるCO2排出の削減や、より新鮮な生産物の供給などの効果もあり、なんともエコロジー。地産地消はなかなかのポテンシャルがありそうです。

でも、わたしは少し疑問に思うところもあります。

たとえば茅ヶ崎で胡麻を栽培している人がいました。胡麻の有機栽培をしている農家は茅ヶ崎でその人一人。市はそんな胡麻が地元で取れて、さらに地産地消できたら嬉しいです。そんな市の期待と誇りを背負ってその人はせっせと良い胡麻を作っているんですが、実際にその胡麻を正当に値付けしたら半端なく高いんです。

だからその人は安くして売るか自分で食べるかです。その代わり儲けがない(むしろ赤字)なので、街へ出稼ぎに行きます。(ぇ)

うーん。まだ実際に聞き取りはしていないのですが、「有機農業」とか「地産地消」っていう言葉の崇高さから、その人はたとえ自分が赤字で出稼ぎに行かなければならなくても、自分は市にとって素晴らしいことをしていると思って栽培を続けるわけで、市もその栽培の継続を期待しているらしいのです。

この事例についてわたしはまだ何も言えないし、それはそれでよそ者がうだうだ言わないほうがいいのかもしれません。今度その方に会っていろいろとお話を伺ってみたいと思います。

なにはともあれ、わたしたちはそれぞれの地域に合った形での「地産地消」を考えて個人個人が意識し始める時期に来ているみたいですね。

関連記事
※1霜降り牛肉−おいしさの裏には?
※2お寿司屋さんの環境学
※3食でつなぐ地域社会プロジェクト

↓エコレベルがアップしたらご協力お願いします↓
ランキング
ランキング2

おすし屋さんの環境学

前回は食卓に出てくる牛肉を例にとって食べ物について考えてみました。
霜降り牛肉−おいしさの裏には?
今回は今日行ったおすし屋さんで感じたことをお話したいと思います。

私が今日行ったのはいわゆる回転寿司などのようなフランチャイズ系のおすし屋さんではなくて、個人の経営している、普通のおすし屋さんです。いや、もしかしたら今や普通のおすし屋さんというと、逆に比較的安く食べることができるフランチャイズ系のおすし屋さんを想像するかもしれません。でも、わたしが今日行ってきたのは、近所にある、友達のお父さんが何十年も握っている、カウンター越しに食べるおすし屋さんです。

前回の話でわたしが指摘したのは、わたしたちが何かを口にするときにそこには「感情的なリンク」が欠如しているということです。言い換えるなら、わたしたちは食べ物を口にする際にその食べ物に関するバックグラウンドというものを想像することなく消費しているということです。

しかし、わたしが今日行ってきたおすし屋さんは違います。一つ一つのネタはおやっさんがこだわりを持って仕入れてきたものなので、おやっさんはこちらが少しでも興味を持てばその食材のバックグラウンドを話してくれます。例えば今日はこんな話をしました。

「今日はサバあります?」
「いやー、もう今週はサバはもう獲れないね。先週までは人にあげるほど獲れてたんだけど、急にピタっと獲れなくなるんだよ。毎年そうだ。今くらいの時期から脂がのってきておいしくなるんだけど、そんな大事な時期に一気に獲れなくなるんだよなぁ。」

他にも、最近は産地を偽ったサバが出回っていることなど、実際に仕入れに携わっていないとわからないような情報もお客さんに話してくれるので、わたしが口にしているものが、いったいどういうバックグラウンドを経てわたしの口に入ってきているのかということを知ることができるのです。

今日わたしは平貝を食べました。でも、あんなに大きな貝柱を持つ貝っていったいどんな貝なんだろうと思って聞いてたら、これこれこういう大きさ、形で、どんな色で、どんな風に岩にくっついているとか、岩から突き出ているからそれを踏んで怪我をする人もいるとか、全く知らなかったことを知ることができました。

このように、昔ながらのおすし屋さんでは、おやっさん(年配の方は「大将」と呼んでたりします)がわたしたちと食材とのリンクを深めてくれるのです。そしてそこには、Face to FaceのコミュニケーションとFaith to Faithの関係が根付いています。

今は、カッパ寿司に代表されるおすし屋さんが勢力を増しており、わたしが行ったような個人経営のおすし屋さんは厳しい状態です。でも、わたしはおやっさんの経営するおすし屋さんにはがんばって欲しいです。おやっさんとの顔の見える関係、自分と食べ物とのつながりの発見、そんなうきうきできるお店が家のまわりにあるっていうのは、わたしにとってはすごくいい環境だと思います。貧乏でもがんばって守りたいわたしの環境です。

関連記事
霜降り牛肉−おいしさの裏には?
食でつなぐ地域社会プロジェクト
地産地消ってなんだろう

↓エコレベルがアップしたらご協力お願いします↓
ランキング
ランキング2

環境教育のとっかかり

今日は少し環境教育について考えました。

わたしは今、子供に自然体験をしてもらうという活動をしているある団体のNPO法人化に携わっている関係で、環境教育に少し足を踏み入れつつあります。この「子供に自然体験をしてもらう」というのはまさに「環境教育」と聞いたときに想像する典型的なイメージですよね。

しかし、わたしは環境教育の対象=子供ではないと思います。
じゃあ何かと聞かれたらちょっとまだ困ってしまいますが、今わたしがおぼろげながらも考えているのはこんな感じです。

みんな良い環境の中で生きたいと思うのは当たり前で、その良い環境とは何か、という問いを自らに問うことを教えることが環境教育である。

要するにわたしは、環境教育は老若男女みんなに必要だと思っているわけです。そして教育者は被教育者よりも知識を持っている必要は必ずしもないとも思います。
「わたしにとって本当にいい環境ってなんなんだろう。」と思ったときに、「もしかしたらこういうことかもしれない」と気付かせることが環境教育の役目であり、教育者はそれこそお父さんやお母さん、または自分の子、もしかしたら木や川や風かもしれません。

このような立場に立ったときにもう一つ気付くのは、「環境教育=善」では決してないであろうということです。今環境問題が深刻化しているのは、紛れもなく前世代の「便利=良い環境」という環境教育に問題があったからでしょう。

環境教育については、新たにブログにカテゴリーを追加してこれからさらに議論を深めていきたいと思っておりますので、今回は私見を述べるにとどめておきたいと思います。

↓エコレベルがアップしたらご協力お願いします↓
ランキング
ランキング2

大人の「遊ぶ」

大人が「遊ぶ」っていうと、なんなのでしょうか。これは、自分でもまだ推測でしかないのですが、大人が何かをして「遊ぶ」というと、ほぼイコール「消費活動をする」みたいなイメージがあります。

今は「友達と遊ぶ」と聞くと、だいたいカラオケに行くのかなぁとか、飲みに行くのかなぁ、または買い物に行くんだろうな、と思うわけです。いつからそう思うようになったんでしょうね。

思えば、小学校の頃に「友達と遊ぶ」と言えば校庭で遊具を使って遊んだり、むしろ遊具なんてなくても、家の前や公園などで何か拾ってそれで思いつく限りのことをしていました。今の子供達がどのように遊んでいるかはわかりませんが、だいたい小学校の頃お金なんて持っていないから、そんな風にしか遊べなかったというのも事実です。

お金を使って遊び始めたのは中学校くらいの時でしょうか。やはりお金を使うことを覚えるというのは、お金があれば自分が欲しいものが手に入るということを学ぶことですから、それはそれは楽しかったです。でも、そのころから「楽しさは買うものだ」という風に思うようになったのかもしれませんね。

友人が社員旅行に行ってきて、「泊まったとこはなんにもなくてやる事がなかった、つまらなかった」と言っているのを聞いて、この世にやることのない、楽しみのない場所なんて本当にあるのかなぁ、と疑問に感じ今回の内容を書くに至ったわけですが、人為的に作られた楽しさは娯楽の中のごく一部だということにそろそろ気付くべきなのかもしれません。

雑草さんが雑草の言葉というブログで主張しているように、環境問題が限りのない消費活動の拡大から生まれたというのは今ではかなり説得力を帯びています。子供のときのように消費活動なしに(または小さな消費活動で)楽しんでいたというのを思い出して、もっと消費の少ない「エコな遊び、エコな楽しさ」を大人が意識したら少しは何かが変わるかもしれません。

みなさんにとって「遊ぶ」って何ですか?わたしはまだ考え中です。

↓エコレベルがアップしたらご協力お願いします↓
ランキング
ランキング2

 | BLOG TOP |  NEXT»»