あるテレビ番組で、「葉山牛を1000円以下で食べられる!」とかいうのをやっていた。
ウマソー!と一瞬思ったが、葉山牛の飼育過程の説明でちょっと考えさせられた、というのも、わたしが食べている肉って牛じゃないんじゃないかな、と思ったわけである。
誤解しないでほしい。普段わたしが食べているのは紛れもない牛肉である。わざわざ牛と偽って出荷されている牛肉を食べているわけではない。(そこまでひねくれてないよ)
要はわたしが肉を食べるときにその肉が牛だったというのを意識しているのか、または意識できるのか、といったことである
葉山牛の飼育過程において重要なのはまめにブラッシングをしてやってなるべくストレスを感じないようにするらしい。きっと牛は「モゥ気持ちぃー!ありがとね!」とか思っているはずである。そんなのを想像しているとその牛がかわいく見えてくる。
しかし、その飼育員はむしろ牛の気持ちなんてどうでもよく、あくまで最高級の霜降り和牛を作るための作業としてやっているのだ。そう考えると飼育員が恐く見えてくる。つまり別の例を用いればこういうことだ。
会社で上司が部下に「おまえ、今日は本当によくやったな!上司として誇りに思うぞ!」と言ったりして部下が「ありがとうございます!(やったぁ)」とか思ったとする。しかし、上司からしてみれば朝読んだ本に【One Point-部下の業績を伸ばすにはまず褒めること。】と書いてあってそれを実践しただけの話だとする。私はちょっと切なく感じる。
しかし、重要なのはこれから先だ。牛の話に戻すと、わたしが牛に対して切なくなった時点でわたしとその牛の間にはなんらかの感情的なリンクができたと思われる。しかし、いざわたしが食卓で霜降り牛肉を前にすると、それは「うまそうな肉」であって「モノ」である。無機的なのである。
なぜわたしはその肉を前にすると想像が働かなくなってしまったのか。なぜなら、かわいい牛と霜降りの肉片はわたしの中では全くの別モノだからだ。次の図を見て欲しい。

原因の一つとして考えられるのは、牛が牛肉へと変わる際の過程が普段の生活の中から切り取られているということだ。社会の中で切り取られるイメージには、何かの意図が働いていることが多い。例えば、わたしたちが牛肉を見て「あぁ、かわいい牛さんがこんなことに…」とか「こんなの食ったらバチが当たるわい」とか思ってしまうと消費量が落ちる。そうすると経済の循環が減速する、といった具合だ。
家畜を自らの財産として暮らしている文化圏では、家畜を大事にし、また食用として殺す際には生贄の儀式(感謝をささげる儀式)が行われていた。つまり、そのような文化においては、「感情的なリンク」を押し殺すのではなく、逆に儀式などを通して消化させることによって自然との関係を深めていたのである。もちろんそのような関係においてむやみに牛を殺したりはしない。無駄な自然資源の搾取は行われないのである。
次に食事をするときには、「いただきます」と言ってそれぞれの食べ物に想像力を馳せてみてはどうだろうか。また、食べ物だけではなく、身の回りにあるいたるものに想いを巡らせてみることがエコロジーになり得るのではなかろうか。
(環境倫理学の研究者である鬼頭は、『自然保護を問いなおす』の中でこのような生産物と消費者との関係を「生身と切り身」という概念を打ちたてて説明している。また、本文でわたしが使用している「感情的なリンク」は、鬼頭によれば「宗教的・文化的リンク」と呼ばれ、それに対応する概念として「社会的・経済的リンク」を用いている。本文にて興味を持った方は、そちらでの議論を参照されると良いかと思う。)
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